#00 『所有せざる人々』

00 /孤児院

 それはふたりが孤児院に入ってから、丁度二月になる日の出来事だった。時節は鬱陶しい雨期の真只中で、その日も白い絹のような霧雨が街を包んでいた。

 シェイヨルとシャロンの母は三ヶ月前、流行病に肺をやられてあっさりと死んだ。父は兄妹が赤子の時分から姿を消してしまっていたので、つまりシェイヨルとシャロンは両親を失う事になった訳だ。この若い兄妹は、母が遺した僅かな貯えを手に親類を頼って旅したが、滅多に会う事もなかったような親類たちは、いろよい答えを返してはくれなかった。
 それまで住んでいた借家を後に、結局ふたりは孤児院の戸を叩いた。孤児院にしてみれば食い扶持を増やす事になる訳で、当初、院長はふたりを歓迎はしなかったが、シェイヨルが懐から取り出した幾許かの金子が、院長を翻意させるに至った。加えて言うならば、ふたりが十分な労働力となる年齢に至っていたのが、院長を頷かせたのかもしれない。シェイヨルは十七、シャロンは十五だった。

 孤児院は決して楽しい場所ではなかった。シェイヨルとシャロンはそれまでも決して裕福とは言い難い生活をしていたが、それでも母子家庭という点から見れば、それは十分な暮らしだった。国土を遍く血に染めた「エンダーの大戦」から二年。女手ひとつで子供二人を育てる事が叶った理由は、偏にそれまでの確かな貯えに尽きる。彼らの母はその身を売る事もなく、純粋な労働のみで生計を立てていた。街角には娼婦が立ち並び、その「人類最古の職業」をもってしても、餓えて死ぬ者は居たと言うのに。
 気の弱いところがあるシャロンは、孤児院中の苛めっ子から格好の標的にされた。所詮子供同士の他愛無い戯事ではあったが、それでも当の幼いシャロンにしてみれば、それは十分に辛い責め苦だと言えた。シャロンはポニーテイルにまとめ上げた金髪を踊らせて、
毎日のように泣きながら兄の姿を探していた。
 そのシェイヨルはと言えば、院長から指示される作業に奔走する毎日であった。それは特に彼だけが忙殺されていた訳ではなく、孤児院に住まう他の若者にしても同様だった。十七というシェイヨルの年齢は、孤児院で養うには些か年嵩なのだ。それでも彼は文句ひとつ言わず、日々の労働を続けた。文句を言っている暇などなかった。忙しいのは他の者も同じ。院長でさえ、自ら肉体労働を行う事に躊躇いを見せなかった。皆、生きる事に必死だったのだ。
 間に合わせのような夕食の後、シェイヨルとシャロンは裏庭に出て星を数える事を日課にしていた。シャロンは母からよく聞かされた星座の知識に詳しく、夜毎星々にまつわる伝承を兄に語った。とりわけ彼女が好きな星座は、北天に煌々と輝く青い双児星だった。シャロンはそのふたつの輝きに、兄と自分を重ねて見ていたのだ。

 そんな日々が二月も経過しようと言う頃、孤児院は予期だにせぬような客人を迎えた。それは紅いドレスに身を包んだ若い貴婦人で、乗り付けた二頭立ての馬車から降り立つ姿には、貴族特有の気品に満ちた仕種があった。年の頃は二十代前半と思しきその女性は、名をロザリアと言った。
 ロザリアは堂に入った作法で院長に挨拶を投げ掛けると、この来訪の意図を告げた。シェイヨルとシャロンという兄妹が此処に居る筈、彼らを引き取らせて頂きたい、と。
 当の兄妹が前に立つと、ロザリアはふたりの顔をしげしげと見つめた。そして得心した様子で、院長に謝礼の言葉を幾つか献じると、シェイヨルとシャロンの手を引いて馬車へと乗り込んだ。ふと孤児院の方に目をやったシャロンは、院長がロザリアの従者から小袋を手渡されている姿を見つけたが、世の道理に疎い彼女は、それがふたりを「買う」ための金であるとは気付かなかった。

 馬車が走り出した。
 シェイヨルとシャロンは、ロザリアと向い合わせに座っている。シャロンは事態の展開に着いて行けていないようで、その小柄な身体を更に縮めて、兄の腕にしがみ付いていた。その様子に何を思ったのか、ロザリアはくすりと微笑んだ。妖艶な微笑だった。
「あなたは……」
「ロザリアよ。ローザでいいわ」
 気まずい沈黙を堪え切れず口を開いたシェイヨルに、ロザリアは自分の名を告げる。
「そういえば挨拶らしい挨拶は、まだね。こんにちは、シェイヨル、シャロン。会う事が出来て嬉しいわ」
「……はじめまして、ローザ。シェイヨルです」
「は、じめまして……私は、妹のシャロン……です」
 何処か怯えたような声で、シャロンも恐る恐る挨拶を返した。
 ロザリアは背中まで伸びた豊かな金髪をもつ、美しい女性だった。毅然とした物腰と、生まれついての威厳。その身を取り巻く雰囲気は、彼女に大人びた成熟感を与えている。それを考慮した上で彼女をよく観察してみれば、実際の若さにすぐ気が付くだろう。彼女はまだ、二十歳になったばかりだ。
 シャロンは目の前に座った、紅いドレスの貴婦人に目をやった。女らしい体つきをしている、とまず思った。ロザリアの胸乳を包む紅い生地は、内側に秘めた豊かな肉に押し上げられて張り詰めている。シャロンは同性の自分がこれほどに気になっているのだから、男性にとって、その豊かな乳房は随分と魅力的に見えるのだろうな、と思った。そして、自分の身体の幼さを今更ながらに思い知らされ、不意に悲しくなった。
 十五という年齢に比べて、シャロンの身体は若干未成熟だった。未だ胸の膨らみは薄く、尻から太股にかけての曲線も少年のように固い。兄が横にいるという事実が息苦しかった。まるでロザリアと比較されているような気分になる。しかしシャロンと彼女の共通点はと言えば、精々その髪と瞳の色くらいなものだった。
 ロザリアの淡い琥珀色の瞳が、兄妹を映していた。
「随分と苦労をしたようね。ごめんなさい、もっと早く見つけていられれば、よかったのだけど」と、ロザリアは言った。シェイヨルは躊躇いがちに聞き返す。
「ローザさん、あなたは?」
「そうね、まずそこから話すべきなのでしょうね」
 ロザリアは浅い溜息を吐いた。
「あなたたちのお父様は、半年前に亡くなったのよ……重い病で」
「僕たちの、父さん?」
「そう、お話は伺っているわ。あなたたちが幼い頃に、家を出られたそうね」
 シェイヨルとシャロンは、思わず顔を見合わせた。予想だにしていなかった状況だった。兄妹にしてみれば、自分達が赤子の時に居なくなった父親の顔など、覚えている筈もない。
「あの方は亡くなる前に言い残されたの。私には妻と子があった、それを捨て置いて今まで生きてきた事だけが心残りだと。私はあの方の遺産を継ぐ代わりに、あなたたちを引き取って育てる事を任されたのよ」
 ロザリアは薄く紅を引いた唇で、滔々と語って聞かせた。
「何ヶ月もあなたたちを見つけられなかったのは、あなたたちのお母さまが亡くなった事を知らなかったからなの。あなたたちが親類を訪ねて回っていると聞いて使いを遣ったのだけど、もうその時には、あなたたちはあの孤児院にいたから」
 どう答えていいのか分からない、というのがシェイヨルとシャロンの本心だった。
 当惑した様子を隠せないままに、シェイヨルは疑問を口に出す。
「ローザさん、あなたは……父さんの」
 がたん。石でも踏んだのか、馬車が揺れる。
 ロザリアは少し考えて、そして微笑みながら答えた。
「友人だったの……とても、親しい友人」
 それはシェイヨルの目には、ひどく寂しげな微笑に見えた。しかしシャロンはその言葉に込められた、僅かに濡れた妖艶な響きを見逃さなかった。それはシャロンが女性だからこそ、多感な年の頃だからこそ気付く事が出来たのだろう。兄は気付いていない、とシャロンは思った。この女性は、父を愛していたのだ。
 そう思うと、何故だかシャロンは少しだけ、気が楽になったように思う。それが安堵であると理解するには、彼女は少し幼過ぎた。シャロンは無意識に恐れていたのだ。この紅いドレスの貴婦人が、兄を男として見る事を。

 時は夕刻を迎えつつあった。斜陽の光が馬車の窓から射し込み、シェイヨルたちの膝の上でゆらゆらと踊る。ロザリアは、屋根に結わえられたカンテラに灯を入れた。
「屋敷に着く頃には、もうすっかり夜ね」
「お屋敷……ですか?」
 耳慣れない言葉に興味を覚えて、シャロンがおずおずと尋ねる。
「そう、あの方が暮らしていた屋敷よ。森をあと二つ三つ抜ければ、見えてくるわ」
 ロザリアはふと気付いたように言葉を切って、
「少しお眠りなさい。馬車の旅は楽に思えるけど、意外に身体は疲れるものよ」
「ええ、それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます」
 ロザリアの言葉通り、シェイヨルたちは些か疲れていた。慣れない馬車の旅という事もあるが、何より様々な事が一遍に起こって、頭の中が混乱している。シェイヨルは座席に背を預けて瞼を閉じた。シャロンも仮眠をとる事に決めたのか、その小さな身体が寄り掛かってくるのが感じられた。
 意識を睡魔にゆだねようとしたその時、馬車の車輪の音に紛れて、ロザリアがそっと呟いた言葉がシェイヨルの鼓膜を揺らした。
「似ているわ」
 彼女はそう言った。その意味を考えようかとも思ったが、鉛のように重い疲労感が押し寄せ、シェイヨルの意識を闇の淵へと追い落としてしまった。

  • 馬車は走り続ける。


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