『ぼくのすきなせんせい』 前編

 ここではただ「先生」とだけ書いておこう。別にあのひとの名前をここに明記したところで、これまでに起こった出来事が変わるわけでもない。
 そして僕もまた「僕」でいいだろう。名前は、僕や先生を指し示すラベルは特に必要ない。僕は「僕」、先生は「先生」だ。それでいい。

 この日本にゴマンとたむろす受験生のひとりだった僕は、自分の学力相応の大学を選び、そして合格した。人生という階段を一段、極めてありきたりな方法で上ったわけだ。志望校から合格通知は、正直言って当然の結果だと理解していた。自分に合わせたレベルの大学を選んだ、ただそれだけの結果だ。級友たちが一喜一憂しているのがよく理解できなかった。大学に行くことの何が嬉しいのだろう。それとも、もう受験勉強をしなくていいという解放感が欲しいのだろうか。
 何れにせよ、僕には不可解なことだった。進学にせよ、やがて訪れる就職にせよ、それらは単純に、人生を進行させるためのプロセスに過ぎないのだと思う。そう、階段だ。段を飛ばして上るのは大変だろうが、一段ずつ登るのは容易いことだ。僕はそう思った。

 高校の頃、いや、実際には今も、僕は友達の少ない人間だった。
 僕は人と調和をつくることの出来ない閉鎖的な人間で、高校生にありがちな現状否定の為の青臭いニヒリズムに、骨の髄までどっぷりと浸かり込んでいた。このニヒリズムという魔法はこの上なく独善的なもので、その頃の僕は世の中に唾吐くことばかりを考え、それに満足していた。調和の外の一匹狼、孤高の偏屈者。今思い返してみると失笑を禁じ得ないばかりだが、当時は大真面目だったのだから質が悪い。尤も、こういったことは誰もが考えてはいたのだろうけれど。

 僕は両親が嫌いだった。
 父親は典型的な勤め人で、趣味らしい趣味を持たず、ただプロ野球のゲーム結果にだけ一喜一憂する。僕には理解できなかった。そんな生活をしていて何故生きていられるのか。午後十時からのスポーツニュースだけを楽しみにして毎日を送ることなど、本当に可能なのだろうか。僕は幼い頃から、ビール片手に野球中継を注視する父親の背中を見てきた。それは驚くほど虚ろで、どことなく白々しい光景だった。
 母親もやはり典型的な専業主婦で、趣味はといえば、推理小説を読み漁ることだ。僕はその種の小説には全く興味を持てなかったので、僕には新書と文庫が列する母親の書棚は、荒唐無稽な空想が詰め込まれた、歪な玩具箱に見えた。母親にはアル中の気があり、よく強い原酒を干しては父親と口論を繰り返していた。だから、僕は酒が好きではない。
 わが家は、実にありふれた家庭だった。どこにでもある普通の家庭。適度な充足と安心感、そして不安をそれぞれ備えた、典型的な「家庭」像だ。僕はその事実も嫌だった。何故なら父や母と同じく、僕自身もまた、ありふれたただの大学生に過ぎないということを理解していたからだ。ありふれたものが集まってありふれたものを構成する。至極当たり前の事実だが、僕は嫌だった。嫌だった。

 僕の自己紹介はこれくらいでいいだろう。件の、僕の「先生」の話をしよう。
 先生は僕の通っていた高校の音楽教師だった。言い忘れていたが先生は女性で、そして男子生徒の脂ぎった注目を集めることのできる適度な若さを備えていた。当時、先生は二十七歳だった。肩まで伸びた艶やかな黒髪が先生の自慢だったのだが、いつも何処かに寝癖をつくっていて、ずぼらなんだかどうだかよく分からないところがあった。
「ドコにでも居る、平凡な、ありふれた女教師よ、先生は」
 男子生徒たちが投げかけてくる質問を、先生はいつも、大人っぽい口調であっさりと切り捨てていた。平時の柔和な態度との切り替えられたような格差が新鮮だったのか、男子生徒たちはむしろ、その冷たい口調に心惹かれていたようだ。僕はと言えば、実際のところ、先生にはそれほど大した興味を持っていなかったのだ。初めは。
 僕が初めて先生を女として意識したのは、高校ニ年の六月の事だ。

 うんざりするような湿気が町を覆う梅雨も真只中のある日、僕はどうやら付き合っていたことになっていたらしい一学年下の幼馴染みから別れ話を切り出された。間の抜けたことに、その日僕は傘を忘れていた。まったく人間というものは複雑怪奇な思考回路を備えているもので、僕は何故だか「朝、雨が降っていないから傘は要らないだろう」と考えていたようだ。その前日も前々日も大雨だったというのに。
 その日の授業を消化した僕は、下駄箱の前で、その幼馴染みの下級生を待った。彼女はいつものように、十五分も待たないうちに姿を見せた。彼女は濃いシアンの、小柄な身体に不釣り合いなほど大きな傘を携えていた。僕が傘を忘れてしまったと言うと、彼女はちょっと小首を傾げて何か考えた後、妙に強い声で、
「はいこれ」と言って、僕に雨傘を差し出した。思わず受け取ってしまった僕をよそに、彼女は自分の学生鞄から、折り畳み式の傘をさっさと取り出した。僕にしてみればふたつも傘を携帯する彼女の心理がよく理解出来なかったが、ともかく濡れ鼠になる事態だけは避けられそうだったので、その傘をありがたく使わせて頂くことにした。
 下校の途中、何故この大きな傘に彼女も一緒に入らないのか気になったので、僕はそう聞いてみた。すると彼女はリスみたいな黒い瞳で僕をキッとにらみつけて、
「別れましょ」と言った。
 僕は彼女が何を言っているのか咄嗟には理解できず、
「え、誰が」などと馬鹿丸出しのことを聞いた。この言葉は彼女の不可解な怒りの火に油を注いだようで、彼女はその場に立ち止まると、今まで見たこともないような凄みのある視線で僕を貫いた。いたたまれなくなった僕は、思わず口を滑らせた。
「……あの、僕らって……ひょっとすると付き合ってたんだ?」
 咄嗟に口をつぐむが、もう遅い。彼女の白い頬が、見る見る朱く染まっていく。小学生の頃、殴り合いの大喧嘩をした時以来の光景だった。どうやら彼女を本当に怒らせてしまったらしい。僕は必死になって言い繕った。
「でも、付き合ってるって……それらしいコトなんてキスもデートも何もしてないし。そもそも僕はお前に『付き合ってくれ』なんて言われたことは一度も……」
 彼女のこの上なく鋭い視線に、僕の自己弁護は中断を余儀なくされた。まるで刃物だ。「男が女に言い訳をするとき、その大半は己の首を絞める結果に終わる」というこの世の真理を、僕はこの若さで悟らされる破目に陥った。
「分かったよ。けど、何で別れたくなったわけ?」
 僕はこれ見よがしな溜息をひとつ吐き出すと、せめてもの反撃を試みた。僕にできる精一杯の嫌味な口調を繰り出したつもりだが、効果があったかどうかは甚だ不明だ。彼女はしばらく僕の顔をじっと見つめていたが、不意に弱々しい声で何事か呟いた。
「え?」と聞き返す僕に、彼女は物凄く大きな声で、
「雨が降ってるからよ!」と怒鳴り返した。
 訳が分からず間抜け面で立ち尽くす僕を無視して、彼女はくるりと背を向けると、僕や彼女の家とは反対の方向へと歩き始める。
「ちょっ……この傘はどうするんだよ!」と呼び掛ける僕に、彼女は振り返りもせず、
「あげるわよ、そんなの!」と叫んで寄越した。それが最後だった。
 呆然自失となった僕は、開いたままの雨傘を降ろした格好で、TVドラマの登場人物みたいに雨に打たれて彼女を見送った。ああ、こんなに雨が降ったら別れ話だって切り出したくなるだろうなと訳の分からないことを、僕はぼんやりと考えた。
 手にしているシアンの雨傘に、ふと目が行った。彼女が僕に一年遅れて、この高校に入学したときに買ったという傘。小さな彼女には三人分くらいあるんじゃないかと思える、大きな雨傘。僕はその時になってようやく、彼女がそんな大きな傘をわざわざ選んだ理由に気が付いた。不意に、中学校の卒業式でわあわあ泣いていた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。まったく僕は馬鹿だった。度しがたい鈍感さ、呆れるほどの朴念仁。
 何が切掛けになって別れることになったのかは分からないが、ともかく彼女との友好関係が徹底的に根絶されてしまったのは確かなようだ。雨の中に立ち尽くしたまま、
 僕は結局、濡れ鼠になった。

 そんな出来事があって腑抜け切った僕は、それからというもの、まるで蝉の抜け殻みたいに頼りない毎日を過ごした。もう彼女とは話をすることはなくなった。
 正直に胸の内を明かすと、僕は実際、なんとも言い表しにくい空虚さから逃れることができなかった。ひらたく言えば「寂しかった」のだ。彼女は僕の心に、意外なほどに大きな領域を占めていたようだった。そして彼女はと言うと、なんでも家庭教師をしてくれている大学生と熱愛中であるらしかった。これは噂好きの姦しい級友から聞いた話だ。彼女はそういう風にして傷心に折合いを付けたらしいが、僕は変わらず腑抜けたままだった。

 放課後、僕はひとりで学校の音楽室に通うようになった。別に誰が居るという訳でもない。単にピアノが弾きたかっただけだ。僕の父親は何を思ったのか知らないが、僕を随分と小さな時分からピアノの教室に通わせていた。小さな頃は心底嫌で堪らなかったものだが、今ではこの選択は、父親が下した指示の中で唯一マトモなものだったと考えている。尤も、我が家にはピアノはない。両親の何れも、そんな気取ったものを買うのは愚の骨頂だと思ったのだろう。
 何にせよ、僕はピアノが好きだ。あの白と黒の秩序の中には、本当に無限としか評しようのない世界がある。何世紀もの時間、世界中の音楽家たちが、この音階の結晶を用いて自分自身の音楽を組み上げて来たのだ。
 今日も音楽室には誰も居ない。僕は足早に部屋を横切り、部屋の奥に鎮座するピアノの前に立った。ピアノは黒く鈍い光沢で僕を誘う。やあ今日も来たのだね、少年。
 僕は席に付く。いつも鍵の掛かっていない蓋を、音もなく押し上げる。
 何がいいだろうか。そう考えた瞬間、僕の脳裏に音の本流が押し寄せる。僕が知る全ての曲が、形を得るため一斉に主張を始める。僕はこの瞬間が好きだ。僕は一介のジュークボックスになる。僕が曲を弾くのではなく、曲が僕を支配するのだ。
 気付くと、指が鍵盤を叩いていた。無論、知っている曲だ。曲名は『フォンタナ』。十四世紀イタリアの楽曲で、作者は不詳。恐ろしく軽快な曲調が特徴だ。僕はこの曲を、友人たちに嫌々ながら御相伴してCDショップからくすねてきた「戦利品」の一枚から知った。それは何でも中世・ルネッサンス期の音楽を古楽器で演奏するという楽団のもので、僕は一も二もなく、そのCDに聞き惚れた。今弾いている『フォンタナ』は、当然ながらピアノの曲ではない。CDではサントゥールという弦楽器やドゥンベクという打楽器、リコーダーなどによって演奏されていた。言うまでもなく、僕は古楽器に触れる機会などなかったので、何とかこの曲をピアノで弾けるように努力を続けてきた。
 いつになく興がのった。僕はそれほどピアノが上手いという訳ではないのだが、今日は自分で驚くくらいに指が踊った。常に爪を短く切ってある指先が、機械のような正確さで白鍵と黒鍵を叩く。何も考えなくても、次に指を下ろすべき鍵盤の位置が理解できた。否、理解しなくても、指が自ずと曲を紡いだ。曲に慣れてくると、よくこういう事が起きる。ピアノと自分が繋がってしまう。二分四十二秒の間、僕はピアノになった。

 そして、件の「先生」が姿を見せたのはこの時だ。
 曲を弾き終えた僕の耳に、余りにも唐突な拍手の音が飛び込んで来た。僕は狼狽した。誰も居ないと思い込んでいた驚きもあったが、何よりピアノを弾いている姿を見られたくなかった。これはまったく子供染みた考えなのだが、どうもピアノと言うのは婦女子の習い事であって、僕のような健康な青少年が没入するものではない、と思い込んでいたからである。ガタン、と椅子を鳴らして、僕は思わず立ち上がっていた。
「誰だよ?」と怒鳴るようにして問う僕へ、対照的に落ち着いた声音で、
「ここのヌシよ」とからかうような返事があった。
 声のした方を向くと、壁に凭れ掛かっている先生の姿があった。すぐ横には準備室の扉がある。間の抜けた事に、僕は準備室の存在を完全に失念していたようだ。
「あ」と途切れるような声と共に、僕は動きを止めた。先生は、相手は音楽教師だ。ここに居る事に何の疑問もない。先生はくすりと笑うと、いつものように一箇所だけ寝癖のついた髪を揺らしながら、こちらに近付いて来た。
「帰ります」
 僕は足下に置いてあった鞄を引掴んだ。
「どうして? もっと弾かないの?」
「もういいです。人に聞かせられるような腕じゃないし、別に聞かせたくもないんです」
 自分でも呆れるほど、ぶっきらぼうな言葉が口を衝いた。しかし先生は気にもせず、
「弾いてみてよ。先生は聞いてみたいな。今のは何ていう曲?」
「クレヨンみたいな髪の毛の色した女の子がいっぱい出てくるアニメの主題歌です」
 仏頂面でそう言ってやると、先生は爆笑した。見ているこっちが恥ずかしくなるような、それは本当に楽しそうな笑い方だった。それをしばらく続けた後で、
「い、いいわ。他にはないの、その『アニメの主題歌』は?」
 眼の端に涙を浮かべ、可笑しくて堪らないという声で先生は問うた。
「弾いて。先生、アニメ好きよ」
 そう言い終わるが早いか、先生はまた笑い転げ始めた。僕は呆気に取られてその様子を見ていたが、溜息をひとつ零して手にしていた鞄を置き、椅子に腰を下ろした。僕はなぜだか、一曲披露してもいいかなと思った。
 もう一度。僕は鍵盤に指を触れた。今度の曲は『ドゥクチア』。あのアルバムのタイトルになった、十三世紀イギリスの二声舞曲だ。先生の笑い声が途絶えるのがわかったが、今や僕はそんな事を気にしていなかった。また、あの感覚が僕を捉えていたのだ。
 ピアノとの、曲との一体化。今日は変だ。余りにも上手く弾け過ぎる。
 この曲から繋がる『エスタンピー』が終わるまでの五分少々の間、先生は身じろぎもせずに僕の演奏を聴いていたらしい。曲が終わり、虚脱した僕に先生は聞いた。
「悪くないわ。君、名前は?」
 僕は名乗った。それが僕と先生の、独特な関係の始まりだった。

 それからというもの、放課後に音楽室へ通うのが僕の日課になった。先生が音楽室に来る頻度は気紛れそのもので、以前のように僕ひとりでピアノに向かった後、そのまま帰宅する日の方が多かったようにも思う。しかし僕は観客の有無に拘らず、いつも鍵盤を叩き続けた。
 ピアノというものは、否、総じて楽器というものは、極めて官能的な一面を備えているように思える。音楽を通して結びつく男女の物語を描いた恋愛映画が、それこそ数え切れないほど転がっているが、これは当然の結果だと僕は思う。そもそも音楽を聴かせるという行為自体が、かたちを変えた一種の愛撫であるのだから。演奏者は聴衆の身体を音の波で包み込む。「音」は苦もなく着衣の隙間から忍び入り、隈無く肌を滑り、澱みなく耳腔へ流れ込み、内側から人を揺らす。それは完璧な愛撫だ。
 無論、この頃の僕はそんな事など考えてはいなかったが、女性を、それもたったひとりの聴衆として迎える経験は初めてだった。幼馴染みのあの子でさえ、僕のピアノを聴いた事はなかったのだ。
 ほかに誰もいない音楽室の中、先生の前でピアノを弾く事、
 それが僕のイタ・セクスアリスになった。

 一度として、先生が僕の前でピアノを弾く事はなかった。先生はいつも何かを考えながら、僕が鍵盤を叩く姿を眺めていただけだ。ピアノ・レッスンが行われたことはなかった。その代わりに、あるとき先生はぼそりと呟いた。
「もし先生に子供が出来たらね、ピアノを習わせようと思ってたのよ」
 ひどく唐突な発言だった。僕はどう答えていいのか判らなかったので、黙ったまま鍵盤を叩き続けた。ふと気付くと先生は僕の背後に立っていて、僕の指先に視線を注いでいた。僕はそれに気付かない振りをして、何とか曲に専念しようと努めた。
「──くん」
 先生は僕の名を呼ぶ。仕方なく僕は手を止めた。先生の唇から、
「今から十分間、あたしの言う事を聞きなさい」
 思い掛けない言葉が響いてくる。流石に僕は背後へ向き直ろうとしたが、それを見透かしたかのようなタイミングで白い両腕が伸ばされ、僕の両頬を意外な力強さで押さえ込んでしまった。目を閉じなさい、と言う声が聞こえた。
「何も見ては駄目。何も考えては駄目。何も喋っては駄目」
 先生の掌の信じられないような柔らかさに、僕の心臓は激しく脈動する。
「弾いて。『ジムノペディズ』は知ってるわよね」
 勿論、僕は知っていた。僕が通っていたピアノスクールの教師は随分とサティに入れ込んでおり、色々と彼の曲を教えられたものだ。干涸びた胎児がどうこう言うような猟奇なタイトルの曲もあったが、それはさておき、この『ジムノペディズ』はサティの曲の中では最も有名なもののひとつだ。
 とは言え、僕はきちんとこの曲を練習した訳ではない。僕が人並みにピアノを弾けるようになったのは、各々の曲をひとつひとつ練習したからだ。余り知らない曲を弾ける筈はない。だが僕は弾き始めた、たどたどしくも、必死に、あの緩やかな旋律を。
 好きなひとがいたのよ、と先生は囁いた。好きなひとがいたの。
「同じ大学の先輩でね、凄く背の高いひとだったわ。コンタクトが嫌いで眼鏡を掛けてた」
 けだるい音の流れに乗って、先生の言葉が僕の耳朶を撫でた。僕は動じなかった。今は何も考えるべきではないのだ。僕は出来の悪いジュークボックスのように曲を紡ぐ。
「あのひとはあんまり背が高いものだからね、他の人の心の中を簡単に覗き込む事が出来たの。あたしが恋してる事もすぐに見抜かれたわ。それから飲みに誘われてね、あたしは中学生の女の子みたいにどきどきしながら身支度した。下着の色まで気を配って選んだのよ、ほんと馬鹿みたい。何も知らないお姫様だったのね」
 僕は嫉妬した。僕の知らない先生を知る、「そのひと」に嫉妬した。
「あのひとの目は誰よりも鋭かった。あのひとに目を覗き込まれて平気な人なんていないでしょうね。あのひとに連れて行かれたバーで、あたしは完全に魅せられたの。あのひとの言葉のひとつひとつに、あたしは喜び、驚き、悲しんだわ。一時間も経たない内に、あたしは気付いたの。このひと以外の誰も、あたしの心をこんなに自由に出来ないって」
 好きですって告白したあたしに、あのひとは言ったわ。
「判りました、君を飼ってあげましょう」
 僕の指は狂い、不協和音を弾き出して止まった。鈍い音の響きが音楽室の壁に弱々しく残饗し、すぐに消えて行った。時ならぬ静寂が生じた。
「……ひどい話と思うかしら? それでもあたしは、そのときのあたしは喜んだのよ。次の日には荷物をまとめて、あのひとの部屋で暮らし始めたわ」
「どうして?」
 先生に背を向けたまま、僕は問うた。二重の意味をもたせた問いだった。どうしてそんな言葉を掛けられた男と暮らしていたのか、そしてどうして僕にそんな話を聞かせるのか。
「どうしてなんですか?」
 先生は答えず、僕の頬を捉えていた手を伸ばすと、細い指先で僕の唇をなぞる。その指先に、僕はキスをした。生まれて初めてのキスだった。僕は先生の手を取り、その掌に、手の甲に、隈無く唇の雨を降らせた。先生は静かにそれを見ていた。
「先週、あたしは捨てられたの。飽きてしまったって、あのひとは言ってた」
 もう僕は聞いていなかった。先生の手の肌だけが、僕の視界を白く染めた。

 先生と過ごした時間は、僕の高校時代の記憶を鮮やかに彩っている。
 思い出してみよう。例えば、
 先生は料理が下手だ。先生は僕が泊まりに行く度に手料理を振る舞ってくれたのだが、これがまた戴けなかった。見た目は随分と旨そうで、だからこそ初めて見たときにはすごいすごいと素直に感動していたのだが、口に入れてみると視界が歪んだ。
「やっぱり……駄目?」と伏せ目がちに、極めて申し訳なさそうな口調で先生は聞いた。自分の腕前を理解した上で食わせたな畜生、と僕は思ったが、口中で猛威を振るう名状し難い混沌の奔流に耐え忍ぶのが精一杯で、首を横に振ることしか出来なかった。先生はそれをどう勘違いしたのか、二十七にもなろうというのに頬を赤く染めて、
「ありがとう」と、信じられないような無防備さで微笑んだので、以来僕は、先生の手料理を断ることが出来なくなってしまった。
 思い出してみよう。例えば、
 先生はすぐものを置いた場所を忘れる。財布だろうが通帳だろうが、お構い無しに忘却する。先生は、それこそわざとやっているのではないかと疑いたくなるような頻度で、
「あたしの財布、どこに置いたか憶えてない?」と僕に聞いてきた。知ったことか。こういった失せ物は十分も経てば見つかったので、実際のところ探そうとする前に僕に聞いていたとしか思えない。失せ物が見つかると、一箇所だけ癖毛のある頭を掻きながら、先生はえへへと笑った。全く、こっちとしては呆れる他になかった。
 思い出してみよう。例えば、
 先生はいびきが酷い。これは僕にとって新鮮な発見だった。女性もいびきをかくのだという至極当然の真実を、先生は身を以て教えてくれた。がああ、とか、ぎいい、とかいう野獣の歯ぎしりの如き異音が、あの慎ましげな形のいい唇から溢れ出す光景はどこかシュールでさえあった。夜半、僕は天使のように安らかな寝顔を浮かべた先生を見守りながら、くう、とか、すう、とかいう可愛らしい寝息を漏らしている様子を想像してみたが、それは儚い徒労に終わった。何故にいびきをかく者は、己のそれによって目覚めることがないのだろうかと、僕は世の不条理にいたく心を傷めたものだ。僕がその世界の神秘について問いただしてみると、先生はくすくすと微笑みながら、
「次はそんなもの聞く暇もないくらいにぐっすりと眠れるよう、疲れさせてあげる」と言った。当時の僕はその手の話に不馴れだったので、耳の先まで真っ赤になった。
 思い出してみよう。例えば──

 寂しい者同士が磁石のように引き合い、互いの傷を嘗め合っているだけなのだ。
 ぎこちない恋人同士の真似事を続けながら、僕は気付いていた。僕はピアノが弾けた、ただそれだけの事だ。僕の代わりに別の誰かが音楽室に通っていたなら、先生はそいつを誘ったはずだ。そして僕もまた、他の女の子に声を掛けられていたなら、その子と付き合うようになっていただろう。僕と先生の関係は、全くの偶然の上に成立していた。
 いずれ終わる恋、終わらせなければ進み出す事の出来ない恋だった。僕は自分自身でも驚くような達観振りで悟っていた。似たような境遇にある者たちの恋は心地よく始まり、そして倦怠と失望にまみれて終わるものよ。先生はそう言った。僕もそう思った。
 だからこそ、僕と先生は早々に別れた。火のような逢瀬を短期間に繰り返し、やがて過去を振り返ったときに後悔しないよう、美しい思い出だけを留められるよう、僕と先生は短距離ランナーを思わせる性急さで恋を交わした。思えば、それは歪な恋のかたちだったのだろう。だけど僕らは、そうする他に術を知らなかったのだ。
 別れたのは僕が三年生になった日の事だ。
「どうして『ジムノペディズ』を?」
 ふたりで最後ときめたその日、僕は先生のマンションで問いを放った。
「あのひとが好きだったのよ」
 予想していた答えだった。僕は溜息をついて、再び先生に聞いた。
「僕は……先生の『あのひと』の代わりになれたのかな」
「それは無理ね。君は君、あのひとはあのひとよ。何もかも違うわ」
 先生は笑うと、僕の額にそっと掌を押し当てた。
「そしてあたしも、君の幼馴染みの『あの子』とは違うの。誰かが誰かの代わりになる事なんて出来はしないのよ。そんな事を考えるのは思い上がりだし、その『誰か』に対してひどく失礼な事よ。明日、あたしと君は教師と生徒に戻るわ。あたしはやがて新しい誰かに巡り会って恋に落ちるでしょう。けどそれは君を忘れるためじゃないの。あたしはあたしのために、自ら望んで新しい恋をする」
 君の事は他の誰かで置き換える事なく、ずっと覚えているわ、と先生は言った。
「僕は……正直言って寂しいよ、先生。これから先も先生を思い出すと、きっと辛い」
 それでいいのよ、と先生は囁き、僕を抱き締めた。
「それでいいの。あたしは君の心に刺さるトゲになる。人の心はね、そんなトゲで傷だらけになりながら鍛えられていくものなのよ。忘れてしまう事はむしろ楽だけど、それじゃ人は弱いままだわ。直らない傷は消えない記憶になるの。あたしは君の心に刺さって、君をつくるもののひとつになるの。あたしにとっての君も、同じよ」
 我知らず、僕は頷いた。先生は本当の意味で大人なのだ、と思った。そのときになってようやく、先生が僕という存在をどれだけ重く見ていてくれたかが判った。今までに僕が想像もしなかったような愛し方で、先生は僕を受け止めてくれていたのだ。
 僕は泣いた。


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