『ぼくのすきなせんせい』 後編

 僕は大学生になっていた。緩慢な時間の流れは僕を変えた。冷笑的で閉鎖的、そして独善的な人間に、僕はなった。青臭いニヒリズムに身を浸して、僕は学生生活を続けた。結局のところ、僕は自分が何をすべきなのか、まったく見い出す事が出来ないままに生きている。どうなのか、と僕は思った。大学が僕に何をしてくれるのかと。
 これは大多数の学生が陥り易い甘えだと言えた。私は努力をしたのだ、受験という競争社会の中で勝ち抜いてこの場所に立っているのだ、故に評価されてしかるべきである、私という存在に価値を見い出さねばならない。下らない論法だが、学生たちは自らの愚かさ加減になかなか気付く事が出来ない。僕もそうだった。大学という場所に幻想を抱いていたのだ。単に未来への「手段」であるところの大学を、愚かにも「目的」と見ていたのだ。 何れにせよ、僕は大学生になっていた。もう高校生ではなかった。

 大学は、ある意味で予想通りの場所だった。システムが変わっただけで、実質は高校と同じだ。自分の時間をチーズケーキのように切り分けて、教科ごとの試験をパスすればいい。むしろ大学で習得した最大の技術はと言えば、それは出席回数のごまかし方だろう。代返なり途中退出なり、様々なやり方で授業を抜け出し、友人たちと連れ立って学生街へと繰り出すわけだ。安っぽい喫茶店で、狭苦しいゲームセンターで、古ぼけた古書店で、場末のカラオケボックスで、僕たちは信じがたいほどに無意味な時間を費やした。

 確かに、大学には沢山の人間がいた。贔屓目に見ても救いようのない馬鹿がいた。屈折した僕にも是と思わせるような努力家がいた。実際に社会人にも等しいような労働を繰り返している奴もいたし、月に二十万円以上の仕送りを受けてなお「金がない」とのたまう輩もいた。それは目も当てられないような多様さで、そこにパラダイムを見い出すことは結構な骨折りに違いないとさえ思えたが、実際には皆「私は普通の家庭に生まれた一般的な一学生だ」と思っているのだから世話はない。そのくせ彼らは/僕らは、何か他人とは違う、自分だけに備わったものがあるのだと信じて止まなかった。

 高校と大学の最大の相違点は、その諦観にも似た学生たちの姿勢にある。それは言うまでもなく、踏み出すべき「次のステップ」によるものだった。就職という言葉がこれほどまでに重く肩にのしかかってくるという事実を、僕はその段になってようやく気付いた。漫然と繰り返される享楽的な毎日にも、やがて終止符が打たれるのだと。あるいは、気付いてはいたのかも知れない。だからこそ、僕たち大学生の目はあれほどに澱んでいるのだ。うたかたの心地好さを奪われるという倦怠が、僕らの心に絡み付いているのだ。
 諦め。そういえば、大学はまた、夢を諦める場所でもある。
 すべての夢は、将来わたしは何になるのだという願望は、大学で失われる。無理もない。やがてくる将来と信じていた時節が、実に今そこにあるのだから。大学に入学した時点で、もう猶予は確定されてしまう。タイムリミットを越えた「願望」は、バン! 膨らんだ挙句に破裂してしまうのだ。安物の風船ガムのように。
 だけど僕は「願望」なんてなかった。すべてなるようになる、そう考え始めたのはいつからだっただろう。ともあれ、僕は夢をもたなかった。時計の振り子よろしく決まり決まった頻度で訪れる試験をひとつひとつパスしながら、小中高と続いてきた最後の学生生活を謳歌していた。

 友人のひとりは教職試験を受けていた。そいつは別に教師になりたかったわけではなく、単に取捨選択の結果、公務員という安定した職にたどり着いたに過ぎない。そいつは母校へ教育実習生として戻り、正直レベルが高いとは言い難い己の知識を駆使して、何とか教師への道を切り開いた。何度かそいつと酒を飲みに行ったことがあるが、実際のところ、そいつは教師になんかなりたくなかったようだった。
「高校生ってのはさ」と、空になったジョッキを指でつつきながら、そいつは言った。
「あんなに嫌なもんだったんだなって、俺は初めて気付いたよ。あいつらは俺ら教育実習生を馬鹿にしてる。俺らが、自分が高校生だった頃のことを思い出して歩み寄ろうとしても、あいつらは鼻で笑い飛ばすんだよ。なあ、どうなのかな。やっぱり俺らも高校に居た頃は、あんなに嫌味な態度を取ってたもんかな」
 そうだろうな、と僕は答えた。みんなそれぞれの枠組みの中で分かりあってるものなのさ。僕たちはもう高校生じゃない。彼らの枠組みの外に居るんだからね。
「悔しいな」と、そいつは呟いた。思わず僕が聞き返すと、
「悔しいのさ。俺だって教師なんかになりたくはなかったけどな、それでも自分が高校生の頃の『理想の教師像』に少しでも近付けるようにって考えてたんだぜ。テストの点数ばかり気にして、わけの分からない『風紀』で生徒を押さえ込むような教師にはならない、生徒の側に立つ『いい先生』になろうとしたんだぜ」
「居場所が違うんだろうな。僕たちはもう、部外者なんだよ」
 僕は適当に話を切り上げると、ジョッキを満たすビールを一息に飲み干した。
 嫌な感じがした。負け犬の臭いだ。僕たちがかつて嘲笑っていた「大人」の姿だ。僕たちはいつしか、境界線を越えてしまったのだ。

 僕の通っていた大学は、実家から電車を乗り次いで半日以上もかかる場所にあった。当然のことながら、僕は生まれて初めての一人暮らしを余儀なくされた。田舎の友人たちと連絡を取り合っていたのは一年目だけだった。以降、事実上付き合いは断絶していた。長期休暇に実家へ帰った際、時折旧友たちと出会うこともあったが、僕は適当な言葉を繋ぎ合わせて彼らをやり過ごした。
 実家は好きではなかった。両親は帰省した僕に続け様に問うのだ。ちゃんと卒業は出来るのか、就職活動は上手くいっているか、お前もそろそろ嫁のことを考え始めなければいけないだろう、付き合っている女性は居るのか。僕は曖昧な返事と、肯定とも否定ともつかない薄笑いで回答を避けた。煩わしいとしか言い様がなかった。両親は就職や結婚といった事柄にさえも、受験勉強と同列の気安さで質問してくるのだ。違うだろう。僕は言ってやりたかった。それは違うだろうと。もちろん、その言葉が発されることはない。幾ら偉そうなことを言ってみたところで、僕は両親の経済力に支えられて生きているのだ。そう、その意味では僕はまだ、子供のままなのだ。
 それを理解した上でなお、僕はいまだに、両親が嫌いだった。

 高校を出てから、二年が経った。

 ある初夏の昼下がり、同窓会を知らせる手紙が届いた。正直言って気は進まなかったが、僕は出席することに決め、返信葉書の「参加」の欄に黒い丸印を付けて、それをポストに投げ込んだ。別に旧友たちの顔を見たかったわけでもなく、酒を飲む口実が欲しかったのでもない。ただ何となく、あの町に戻ってみたくなっただけだ。もしかすると、先生に会いたくなったのかも知れない。
 ともかく時間は僕を待つことなく流れ続け、あっと言う間に同窓会の日がやってきた。

 先生は来ていなかった。考えてみれば当たり前だ、先生は担任でも何でもない。
 田舎特有の安っぽさに満ちた飲み屋に、僕たち同窓生は集まっていた。狭い店だったが、貸し切りということで不自由はなかった。何でも、同窓生のひとりが店主の親戚なのだという。狭い田舎町にはありそうなことだと、僕は思った。
「今日は私のために盛大な催しをして頂き、誠に有難うございます」
 かつて担任だった教師がおどけた音頭をとり、場はどっと沸いた。ビールのピッチャと安そうな料理が次々に運ばれてくる。僕は何故か、溜息をついた。
 それからの数時間はいささか苦痛だった。お久し振り、元気、どこに行ってるの、彼女はいるの、高校のときは全然話さなかったよね、本当にどうしようもない紋切り型の質問が何度となく繰り返される。僕は辟易しながらも、適当な答えを返した。まったく見覚えのないような奴まで、赤ら顔で親し気に話しかけてくるのが厭わしかった。だから僕は、酒が嫌いだ。
「んんだお前、暗いぞおい騒げ騒げ」と、そいつは僕の背中をばしばし叩く。非難がましい目で睨んでやると、そいつは何が可笑しいのか、けらけらと笑った。
 僕は灰皿を掴むと、部屋の端の方に座って煙草に火を付けた。大学で覚えた悪習だ。刺すような濃い紫煙に戯れながら目を泳がせると、少し離れたところで、僕と同じように煙草を吸っている女の子と目が合った。彼女は笑って近付いてきた。
「お久し振り、ってほど親しくなかったわよね。私のこと憶えてる?」
 僕は首を振った。するとその子は眉をしかめて、懐から眼鏡を取り出す。それで思い出した。彼女はいつも本ばかり読んでいた大人しい少女で、確か名前を、
「随分ね。ま、私も変わったって皆に言われてるから無理もないか」
 彼女は眼鏡をしまい、僕の横に腰掛けて、また煙草を吸い始めた。その様子はかつての大人しげな文学少女のそれとは似ても似つかなかった。確かに、彼女は変わっていた。
 ふと思った。僕は変わってしまったはずだ。僕は彼女にそう聞いた。
「変わってないね、あんまり」彼女は言った。「けどほら、君の場合、変わったのはどっちかって言うと高校の頃でしょ? 三年の頃くらいかな」
 先生と別れてからの時期だ。
「何ていうのかな、すごく冷たそうな目付きになってたよ。世捨て人みたいに」
 元文学少女らしい視点だ、と思った。
「けど格好良くなったとは思ってたわよ。私、結構気にしてたもの」
 彼女は笑った。思わぬその言葉に、僕は狼狽した。何とか適当な話題を探して、懸命に話の方向を変える。こんな所で同窓生と昔話に花を咲かせるのは本意ではなかったが、居心地の悪い雰囲気にいたたまれなくなるよりは千倍マシだ。僕らはだらだらと四方山話を続けていたが、ふと僕が「先生」のことを話題にすると、彼女の表情は曇った。
「どうしたの」と聞いた僕に、彼女は何とも複雑な顔つきで答えた。
「好きじゃなかったのよ……あの先生」
 意外だった。先生の評判は悪くなかったと今まで思い込んでいたのだが、それは僕の極めて狭い交友範囲に限ってのことだったようだ。理由を聞く僕に、彼女はふと、
「君もそうだったの? みんなと同じで、」
 気まずげに語尾を切って、彼女は口籠った。僕はまったく相手の言っていることが理解出来なかったが、彼女が今の発言を悔やんでいる様子は容易く見て取れた。
「ごめん、忘れて。またね」
 聞き返す暇もなかった。彼女は煙草を揉み消して立ち上がり、人の輪の中に消えた。
 気に食わなかった。僕が知らないところで、先生に対する悪い噂でも立ってたいのだろうか。つまらない独占欲に駆られて、僕は立ち上がり、旧友のひとりを捕まえた。
 よお久し振り、などという時間の無駄は避けた。不自然にならない程度に、僕は先生のことを聞いた。旧友、数少ない高校時代の友人は、冷ややかな目で僕の顔を見た。
 ぞっとした。
「何だよ、お前聞いたことなかったのかよ。無理ねえか、お前誰とも話さなかったもんな」
 それがどうしたよ。
「結構噂になってたんだぜ。婚約者に逃げられたことがあるとか、誰とでも……」
 誰とでも?
「……寝るとか」
 どくん、と音を立てて心臓が跳ねた。
「噂だろ?」と問う。だが、
「誰とでも寝たってのはホントのことらしいぜ。このクラスにも『お相手』したって奴が結構いたはずだ。俺はそういうヤバそうな話には興味なかったけどな」
 どくん、と音を立てて心臓が跳ねた。どくん、どくん。止まらない。
 信じられなかった。
 ピアノを聴く先生の姿が、
 料理の下手な先生の姿が、
 失せ物をする先生の姿が、
 いびきをかく先生の姿が、
 僕を忘れないと言った先生の姿が、
 消え失せた。

 ひとりでさっさと勘定を済ませて、僕は店を後にした。
 わけが判らない狂おしさが、僕の胸を食い尽くそうとしていた。『フォンタナ』が、『ドゥクチア』が、そして『ジムノペディズ』が耳の中で狂ったように反響していた。調律されていない鍵盤をまとめてハンマーで打ち砕いたような騒音が、僕の脳を削っていた。
 懐かしい町並みを駆け抜けた後、僕は自分がどこへ辿り着いたのか、気付いた。
 古ぼけた小さな駅。ここから二駅先に、
 先生のマンションがある。
 無意識にパスケースを取り出しかけて、僕は苦笑した。もう定期などもっていないのだ。
 販売機に百円玉と五十円玉を投げ込み、切符を買う。通い慣れた改札を久方ぶりに通過しながら、僕は自問していた。
 そこへ行って、
 先生に会って、
 僕はいったい、何を話そうというのだろう。
 僕はいったい、何をしようというのだろう。
 駅のホームに立つと、夏も盛りだというのに、冷たい夜風が僕を撫でた。僕は薄汚れたプラスティックの椅子に腰をおろして、呆然と、長い息を吐いた。
 ──好きじゃなかったのよ……あの先生。
 ──君もそうだったの? みんなと同じで、
 ──何だよ、お前聞いたことなかったのかよ。
 ──婚約者に逃げられたことがあるとか、
 ──誰とでも、寝るとか。
 何も判らなかった。混乱し切った頭に、爆ぜるような心拍。どくん、どくん。
 スピーカーからひび割れたアナウンスが流れ出す。
 電車が来た。

 その部屋のドアの前に、僕は立っていた。
 三年前と何ひとつ変わらない情景。名札には今も、先生の名字がある。
 たっぷり十分ほどの間、僕はポストみたいに立ち尽くしていた。
 何も判らなかった。自分がここにいる訳さえも。それでも、
 それでも僕は、インターフォンを鳴らした。
 僕はここにいる。僕はここにいる。混乱に押しながされそうな僕の心の中で、そう叫ぶものがあった。会いたいのだ。僕は先生に会いたいのだ。聞きたいことがあった。聞いて欲しいことがあった。抱き締めたかった。抱き締めて欲しかった。
 かなりの間があって、ドアの内側に人の気配が生じた。覗き窓からもれる光が影に遮られ、黒く染まる。
 かちゃり。
 かすかに音がして、ドアはゆっくりと、信じられないくらい、ゆっくりと開いた。
「……こんばんわ、先生」
 我ながら、間の抜けたありきたりな挨拶が口をついて出た。
 半開きのドアの向こう側に、先生がいた。
 先生は何ひとつとして、変わっていないように見えた。その唇がわずかに震えて、僕の名前を呼んだ。その懐かしい響きに、僕は言い知れない安堵を覚えた。先生は先生のままだ。僕が知っている、あの頃の先生のままだ。僕はそう思い、
 ふと、
 玄関に揃えて置かれた、一足の男物のスニーカーを目にした。
 僕は咄嗟に先生の顔を見た。しかし先生は気まずげに目を伏せ、唇を噛んだ。その表情は僕の理解の範疇を脱していた。驚きが、悲しみが、後悔が、失望が、羞恥が、混然となって先生の綺麗な顔を覆い尽くしていた。僕は悟った。噂は正しかったのだと。
 どくん。
 胸を叩く脈動の中で、何かどす黒いものが吠えた。僕の手は拳をつくっていた。爪が肉に食い込むほどに堅く、強固な拳を。自分でも信じ難い、生まれてこの方感じたことのないくらいに凶暴な怒りが、胸を締め上げるのを自覚する。
 どくん、どくん。
 僕は荒々しくドアを引き開け、靴を脱ぐこともせずに中へ駆け込んだ。先生が何か叫んでいたが、僕は気にも留めなかった。短い廊下を一足に駆け抜け、寝室のドアを開く。
 先客がいた。半ズボンを穿いた、上半身は裸の、高校生と思しき少年。僕は荒い息を吐きながら、驚く相手のニキビ面を睨み付けた。少年は僕の剣幕に気押されていたようだが、やがて高校生特有の、嫌悪感を隠さないふてぶてしい顔付きで僕を睨み返してくる。
「──くん」
 不意に背後から、先生の声が届く。知らない名前だった。恐らく、この少年の名前なのだろう。少年は避難がましい目で先生を見た。僕の頭に、また血がのぼる。
「──くん、今日は帰って。お願い」
 先生は少年にそう言った。少年はしばらく突っ立ったままだったが、やがてベッドの側に落ちていたTシャツを拾い上げ、殊更ゆっくりとした所作でそれを身に着けた。そして敵意と侮蔑に満ちた一瞥を僕に投げかけて、部屋を出ていく。少年は先生の側を通るとき、さも憎々しげに呟いた。
「今度は大学生かよ。クラスのみんなも嫌になるはずだぜ、この売──」
 どくん。
 皆まで言わせなかった。僕は靴で床を蹴り、少年に向かって駆けた。少年はすぐ廊下へと逃げ出したが、僕の方が速かった。僕は少年の襟を引っ掴み、その身体を入り口のドアに叩き付ける。騒々しい金属音が響き渡った。
「あえ、あ、あうあああ、あ!」
 自分でも意外なほどの膂力で、僕は少年の襟元から喉に手を伸ばし、ごつごつとした喉仏を締め上げる。蛙を押しつぶしたような悲鳴が少年の口から、唾液とともに零れ落ちた。
 殺してやる。
 そう思った。そうすることで、僕の知らなかった先生の側面をかき消してしまえるような気がした。その瞬間、僕は確かに本気だった。この少年を、本当に殺そうと思った。本当に、心の底から、迷うことなく、この少年を、
 殺してしまいたかった。
 だが、
 ひどく落ち着いた、静かな声が僕の鼓膜をそっと揺らした。
「やめなさい」
 僕の背後に、先生が立っていた。先生はまったく動じることなく、
 やめなさい、と繰り返した。それは寧ろ、優しくさえ思える口調だった。
 僕は唐突に手を放した。少年は玄関の床に転がり、苦痛に喘ぎながら、必死に息を吸おうとしていた。僕はドアをあけ、何の抑揚もない声で、
「行けよ」
 と少年に告げた。這いずるようにして外へ出たその背中に、僕はスニーカーを投げ付けてやってから、荒々しくドアを閉じた。その音は、妙に尾を引いて、僕の耳に残った。

 小さなテーブルを挟んで、僕と先生は向い合わせに座っていた。
「本当に、久し振りね」
 先生は言った。テーブルの上には、先生が煎れてくれた紅茶のカップが置かれている。紅茶の仄かな芳香は、殺気立った僕と、際限なく膨れ上がった僕の猜疑心とを解きほぐしてくれた。薄紅色の液体を舌の上で転がしながら、僕は先生の声を聞いていた。
 他愛ない質問が投げかけられる。それらは同窓生たちの質問と同じようなものだったが、先生が相手だと、変にひねくれることもなく、素直に返答できた。
「さっきの男の子が言ってた話……聞いてるんでしょ?」
 やり取りが一段落したとき、唐突に先生は聞いてきた。僕は頷くしかなかった。
「バレちゃったのね。君には知られたくなかったわ。君は卒業するまで、噂も知らないようだったから安心してたんだけれど、ね」
「どうして……?」
 類型的な疑問の声。自分でもうんざりするような陳腐な質問。
「どうしてなのかしらね。私にも判らないわ。ずっと前から、私はこうだったから」
 一瞬、耳を疑った。ずっと前から、と先生は言った。
「いつから? 僕と一緒にいた頃から?」
「もっともっと前からよ。あれは、中学校の頃だったわね」
「っ、僕と付き合ってたときにも、みんな……クラスの奴らと?」
「そうよ」
 どくん。収まっていた脈動が再発する。胸が痛い。信じたくない。
 ふと、先生の言っていた「あのひと」の言葉が脳裏を過った。
 判りました、君を飼ってあげましょう。
 どくん。
「あたしは、愛されることに慣れていないの。愛されることが信じられないの。愛されることが恐いの。どうしていいのか、本当に判らないの。だから──」
「だから抱かれたの、みんなに?」
 先生は、ちょっと困った顔をして、微笑んだ。僕は泣きたくなった。
「そうよ。何人か一遍に抱かれたことも、あったわ」
 目眩がする。だけど先生は三年前と変わらない、優しい笑顔で僕を見ていた。
 ──弾いてみてよ。先生は聞いてみたいな。今のは何ていう曲?
 ──今から十分間、あたしの言う事を聞きなさい。
 ──好きなひとがいたのよ。
 ──それは無理ね。君は君、あのひとはあのひとよ。何もかも違うわ。
 ──あたしは君の心に刺さって、君をつくるもののひとつになるの。
 何も変わらない笑顔。何も変わらない口調。先生はあの頃のままだった。
「そして、あたしは君を好きになった。だから、あたしは君を抱かなければならなかった」
「僕は……僕は好きだったよ! もし抱かれてなくても、先生を好きだったよ!」
 また、困ったような笑顔。先生は静かに、
「ありがとう」
 と言った。消え入りそうな声だった。
 僕の中で何かが弾けた。感情がそのまま言葉のかたちをとって、唇を割った。
「先生は弱虫だ、人を好きになることが恐いだけなんだ、好きになった後でそのひとを失うのが嫌だからって、みんなに抱かれて、ごまかすような恋愛ごっこをしてるだけだ!」
「……でもあたしは、抱かれるのが好きなのよ?」
「なら僕だけを抱いていて欲しかった! 朝から晩まで、いつだって先生が望むなら僕は先生の側にいたよ! 先生のためだけの僕でいたよ!」
 ふと気付くと、先生は泣いていた。それは僕が初めてみる、先生の涙だった。
 紅茶は、すっかり冷めてしまった。

 先生は僕に寄り添って、耳許で囁いた。
「今夜は、君を抱かない。君が好きだから、あたしは君を抱かない」
 僕は頷いて、喉の奥まで届くくらいに情熱的な、長い、長い、キスをした。

 翌朝、僕は先生のマンションを後にした。
「あたしは、変われないよ」
 先生は言った。
「あたしは今の自分でしか暮らしていけないよ。どんなに皆に後ろ指を差されても、嫌われても、そうやって生きていくことしかできないよ」
 ふと、高校時代に先生が言った言葉を思い出す。
 それでいいの。あたしは君の心に刺さるトゲになる。人の心はね、そんなトゲで傷だらけになりながら鍛えられていくものなのよ。忘れてしまう事はむしろ楽だけど、それじゃ人は弱いままだわ。直らない傷は消えない記憶になるの。あたしは君の心に刺さって、君をつくるもののひとつになるの。あたしにとっての君も、同じよ。
「先生は嘘をついてる。先生は、先生は今も弱いままだ」
 僕は言った。
「僕は、今でも、先生が好きだ」
 後を振り返らず、僕は走り出した。町を駆け抜けながら、僕は悟った。
 相手が何をどう考えていようと、自分は相手を愛し続けることができるのだと。
 先生は変わらないだろう。僕の知らない少年たちに、これからも抱かれ続けるだろう。
 だけど、
 それが何だというのだろう。僕は、先生が好きだ。
 ピアノを聴く先生が、
 料理の下手な先生が、
 失せ物をする先生が、
 いびきをかく先生が、
 僕を忘れないと言った先生が、
 僕は好きだ。
 僕はまた、この町を訪れるだろう。僕はまた、先生に会うだろう。
 あの「ぼくのすきなせんせい」に。

 空が高い。気が遠くなるような青さだ。
 僕はホームに立った。折よくアナウンスが流れ、電車が来る。
 乗客も疎らな座席に腰をおろし、僕は窓の外を見た。
 見なれた町並みが、緩やかな振動とともに動き始めた。


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