『アップダウン・インサート』 前編

「……上のご夫婦、やっと静かになったわね」
 下田下恵はパジャマと下着をまとめて脱ぎ飛ばしながら、寝室のベッドへと滑り込んだ。今日陽に干したばかりの真っ白なシーツを敷いたベッドの中では(同じく素っ裸の格好で)下田下雄が文庫本を読んでいる。妻に声を掛けられた下雄は、丸縁眼鏡のレンズ越しにちらりと妻の顔を見やると、
「みたいだね」と頷いて、また文庫本へ視線を落とした。いったい何をそれほど楽しそうに読んでいるのか訝った下恵が題名を改めてみると、本の表紙にはナボコフ著『ロリータ』との表記がある。
「……それ面白い?」
「すっげえ面白い」
 ぶんぶんと頷く夫を、下恵は呆れたような眼つきで眺めやった。ぐりぐりと拳骨で下雄のこめかみを抉りつつ、
「本はベッドで読むもんじゃないわよ、しかも裸で」
「うん、確かにその通りだな。分かった」と素直に頷いてベッドを出ていこうとする夫の首根っこを、下恵は慌てて掴み止めた。
「あぅ……俺は猫じゃないんだから、そーいうのは止めろよ」
「馬鹿な事言ってないで、ほら。こっち来て……ね?」
 名残惜しげに本をベッド横の小棚に置いた(もちろん節の区切りまで読んで、きちんと栞も挟んだ)下雄は、お誘いあらば応えるが礼儀、とばかりに妻を組み敷くと、もの欲しげに開かれた唇へキスをする。
 何度か軽く突き合せてから、また押しつけ合い、そして唇を割り開いて、深く舌を絡め合う。何度となく繰り返されてきたこの一連のコンビネーションは、今夜も下田夫妻の性感に確かな効果をもたらした。高まる官能に抗わず、ふたりは互いの髪に絡めていた手を肩から背へと滑らせ、汗がにじみ始めた肌を撫で回していく。
「また汗、かいちゃうな」
「そんなの、シャワーすればいいじゃない……あ、んっ」
 耳たぶを甘く噛まれて、下恵は弱々しく喘いだ。もう開拓の余地がないほど身体を知り尽くされている相手だけに、スイッチを押すような容易さで喜悦を引き出されてしまう。
「だめ……もう、我慢できない」
 下恵は情欲に震える指を必死に伸ばして、枕の下を手探りした。そこにはいつものようにコンドームが、

 ない。

「あ……れ? ちょ、ちょっと待って。うそっ」
「……ど、どうした?」
 数秒前の官能的な雰囲気やいずこ。下恵は泣き笑いにも似た困惑の面持ちで、たった今自分たちに降り掛かった不幸を悟る。
「ないのよ、ゴム切らしちゃったみたい」
「え、あ、んと……今日も危険日だった、よな?」
「ていうか超危険日よう」
 何やら手をつなぐだけも妊娠してしまいそうに聞こえる単語で、下恵は自分のサイクルの進行具合を表現した。
「あ、そう言えば一昨日ので最後だったんだっけ」
「うーっ、ひどいよー、こんな中途半端なの、やだよーっ」
 下雄は、じたばた暴れる妻を「どうどう」となだめながら、
「そんな事言われてもなあ、イっちゃったら出るもの出ちゃうワケだし……あ、じゃあ今夜はお尻でしよっか?」
「バカ、それこそゴムが要るじゃないのようっ」
 実に正論である。下田夫妻は額を突き合わせて事態の解決方法を模索し始めた。もうひとり誰かが居れば文殊の知恵がどうのこうのという人数になるが、そうなったしても状況に大差はあるまい。
 下田家の叡智は結集され、そして結論は出た。
「それじゃあ、上のご夫婦にお借りするってコトで」
「なるほど、やっぱり近所づきあいは大切よね!」
 下田夫妻は頷き合う。
「とすると急いだ方がいいわね、もう一戦始まる前に頼まなきゃ」
 善は急げと、でも言うつもりらしい。
 下恵は大きく息を吸い込むと、
「あのー、すみません。コンドーム切らせてしまって、本当に申し訳ないんですけど、お借り出来ないでしょうか?」
 もちろん実際に返したりはしないので、厳密には「借りる」訳ではないのだが。ともあれ下恵はベッド脇から身を乗り出し、まるで醤油でも借りるような気安さで呼び掛けた。その声を聞いた「上のご夫婦」が、同じくベッド脇から揃って顔を突き出す。
 同じ寝室。二段ベッドの上段と下段。
 そう、この家はいわゆる「二世帯住宅」なのである。

「あらあら、大変」
「下の奥さん、まるで狙ったみたいなタイミングだなあ」
 ねちっこい愛撫で高められ、後は挿入を待つばかりという状況下にあった上村上美は、「二世帯住宅」の同居人である下田家の奥方が放った呼び掛けによって、夢心地から現へと引き戻された。
 折りしも上村夫妻は二回戦の真っ只中。夫の上村上平に到っては硬く勃起したばかりで、しかも既にコンドームをつけた状態での水入りとあっては、蛇の生殺しと言うしかない。
 すっかり普段通りのおっとりとした口調に戻った上美が、
「仕方ありませんよ、いつもお世話になってる下田さんですし」
「……だね。ええと、ゴムの箱は確かこっちに……あ、あれ?」
 何やら、どこかで聞いたような声である。
「どうしましたか?」
「いや、どーやら今使ってるヤツが最後の一枚みたい」
「……ええっ、そんなあっ」
「……もう五分も早けりゃ間に合ってたかもなあ」
 どさくさに紛れて、いつの間にやらベッド上段へと上がってきた(素っ裸の)下田夫妻が、悲哀と落胆に満ち満ちた言葉を漏らす。
「すみませんねえ、今度からは何枚か取っておきましょうか?」
「いえいえ、お気になさらないで下さい。俺たちの不注意なんで。今夜は素股か何かで間に合わせますから、お気遣いなく」
「それじゃあ、お取り込み中失礼しました」
 ぺこりと頭を下げてベッド下段へ戻ろうとする下田夫妻の顔つきは、まるで世界の終わりでも迎えたみたいな落ち込みぶりだった。その様子を見兼ねたのか、上美がひょいと声を掛ける。
「私ピル飲んでますから、旦那さん取り替えましょうか?」
 その無茶苦茶な物言いに、下田夫妻と上平は凍りついたかのように動きを止め、そして声を揃えて確かにこう答えた。

「……ナイスアイデア!」

 玩具を買って貰える子供、とでも描写すればぴったりだろうか。下田夫妻は瞳を輝かせて、くるりと回れ右をする。その遠心力で、夫妻のペニスと乳房がぶるんと震えた。実に間抜けな光景である。
「い、いいんですか奥さん」
「困ったときはお互い様ですよ。ねえ、あなた?」
「うんうん、情は人の為ならずとも言うしね。ここは一肌脱ぐ事にしようか。それで宜しいですか下田さん」
「……ぜ、是非お願いしまっす!」
 こうして上村・下田両家の面々は、予期だにせぬパートナー交換を行う次第となった。妻たちは自分が向かうベッドの上下を決めるべくじゃんけんを始め、また夫は夫で「僕、スワッピングは初めてなんですよ」「あ、俺もです」などと、妙に和やかな歓談を繰り広げている。やがて数十回に及ぶあいこの反復に終止符が打たれて、各人が向かうべきベッドの上下が決まった。
「あんた、上村さんに迷惑掛けちゃだめだかんね」
「分かってるって。お前も粗相するんじゃねーぞ」
「あら奥さん、おしっこされるんですか?」
「……その『粗相』じゃないよ、お前」

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